本日はあのレニーの生誕日であることを知り、急いで筆をとる。
最近の若い音楽家にはもしかしたらレニーと言っても通じないのかもしれない。
レナード・バーンスタイン、今日は彼の誕生日なのだ。
彼の演奏で一番好きなのはこの大学祝典序曲。*1(カラヤンのチャンネルになっているが安心してほしい。0:25に入っている雑音からこれは間違いなくバーンスタイン@ウィーンフィルの録音だ)。
何がいいかって?出だしのテンポ感、金管のコラール、ホルンの三連符のところと、そしてラストのテューバのハイCの抜け感よ。ここまで気持ちよくハイCが収音された録音があっただろうか。
バーンスタインの音楽をはじめて触ったのは、同じくウィーンフィルとのシベ2だった*2。あれほどまでに4楽章のCIS→Dのテューバが聴こえる録音があるだろうか。いや、当時もっとも聴き返した場面はそこではない。3楽章から4楽章へブリッヂの部分だ。
何か音楽が、シベリウスのもとを完全に離れてバーンスタインという人間によって再構成されているような、再現することにとどまらない芸術が、そこにはあると信じられたからだ。
よく、バーンスタインは晩年になるほど遅くなって、音楽の全体性が損なわれたと指摘されることがある*3。
確かにそれは否定できない。とくに交響曲というジャンルはいくつかの楽章からなっていて、それらは単なる連続ではなく、意味のある連関であることは言うまでもないからだ。
だが、音楽という芸術が、一度きりの自作自演にとどまらず何度も時を超えて再現されるものであることを踏まえると、初演からかなりの時間が経過した定番の曲に対して、やれベートーヴェンらしさだの、ブラームスらしさだの、求めることに意味はあるのだろうか。
おそらくバーンスタインは音楽を再構成する能力と、それを他者に伝えるコミュ力(カリスマ性)、その二つが秀でていたのではないか。
もしそうなら、それって地味にすごいことだと思う。なぜならオーケストラのリハーサルにはどれだけの時間が取られていたのか定かではないからだ。
有名指揮者は客寄せパンダになりやすく、数回のリハで本番を迎えることも少なくない。ましてや、レニーの録音はライブも多い。
何が言いたいかというと、レニーの録音がそれぞれにレニーらしさであふれているなら、それは彼が相手にする集団が何であろうと、自分のやりたいことを本番までに伝えることができ、なおかつ演奏者からの賛同を得ることができ、さらに本番で高い集中力をもって実現させることができたということになる。
こんなこと普通の人はできない。
オケの実力に差がなくなってきた現代であっても、こういったことができる人はきっと少ない。
バーンスタインの音楽は”製品”ではない。我々を気持ちよくするためのものではないのかもしれないし、時には作曲者の言葉を代弁するものでもない。
彼の音楽は”音楽家らしさ”でいっぱいだ。
【あとがき】
このブログをご覧の皆様。お好きなレニーの録音があればぜひコメントにて教えてください。私は少なくともレニーの歌い方は好きです。