音楽と形式と

音楽について好き勝手語ったり解説したり

堅物な僕も変わるもんだなぁ……

さて、きっと後にも先にも出現しないであろうクラシック音楽解説系Vtuberの緑川ユウですが、動画投稿がかなーり滞っています。
言い訳すると、今まで動画で使う音源はmusic scoreで作成した簡素なものだったんですが、今回からは所謂ソフトシンセでがっつり音源を作成していくことにしたからです。
まぁ…簡単に言うと音符の打ち直しな訳で…。

でも一番驚いているのは、「DTM」という三文字に対して強烈なアレルギーを持っていた自分が意外とすんなりピアノロールで音符らしき何かを打ち込んでいるということです。

僕は嫌いでした。
五線譜も読めずに自称作曲家を気取る人たちが。

僕は嫌いでした。
実際に何一つ楽器をやらずに自称作曲家を気取る人たちが。

僕は嫌いでした。
交響曲をまともに聴いたことのない人の作る「オーケストラアレンジ」、そして「ストリングスアレンジ」が。

聴いててわかってしまうんですよね。あ、これやったことのない人のサウンドだって。
そしてその瞬間何か馬鹿にされたような、世の中から見た自分の好きな界隈へのレッテルが、耳から入ってくるような感じがして。

そしてそういう人たちが一生懸命にモニターに向かって見ていたのが、このピアノロールというものです。
音符ではない、棒と空間。本来重要なスラーなどのフレージングが除去された無機質な何か。これが音楽なわけない。これのどこに解釈の余地があるのか?まるで芸術ではなく製品をつくるロボットじゃないか。
そこから生み出される有象無象。学と品のない騒音が僕をこの三文字から遠ざけていったのです。
彼らが決して一生懸命な人間じゃないとか、音楽に対して真摯じゃないとか、そういうわけじゃなくて、根底からして違う何かを勝手に感じて、自分の好きなジャンルを守るために「学と品のない」というレッテルを一方的に貼りつけ遠ざけました。

さて、今動画のために友人に頭をさげDTMを基礎から教えてもらっているわけですが、その過程でようやく気付いたことがあります。
それは、このいわゆる打ち込みという作業は作曲ではないということです。
あくまで音楽の諸要素を表に出すための手段。弾を打ち出す大砲や鉄砲に過ぎないということです。
この目の前のピアノロールをみて音楽を考えているわけではない。そうとは限らなくて、アウトプットに必要な過程だからやるしかないという側面を身をもって体験したのです。

今後もエセ=オーケストラアレンジは量産されていくのでしょう。そこには学も品もないのかもしれません。
ただ、もしかしたら全てがすべてそういうものでもないのかもしれない。最近やっとそう思う自分がいます。

バーンスタインベートーヴェンNr.5を聴きながら~