音楽と形式と

音楽について好き勝手語ったり解説したり

芸術と製品、観照と享楽(現代感情美説批判)

音楽(テキストを持たない器楽、クラシック音楽)は芸術なのでしょうか。それとも製品なのでしょうか。CDなどの記録媒体の普及によって、音楽が生演奏という一度きりの体験ではなく、同時に複数の地点に現れることができるようになった今日では、芸術であるという見方は薄れつつあるように見えます。

 

製品というのは消費され使う倒されるために存在します。だから存在と同時にゴールが決まっているようなものです。人々はそのゴールへ正しく導くことを期待しお金を払うでしょう。
また、もしも期待していたゴールへたどり着けなかった場合は、「ぼったくり」と言われるのです。

対して芸術というのは明確な目的のためにあるとは限りません。もしかしたら作り手は何かしらの思いを込めるのかもしれませんが、それは対象が我々の前に顕現するときにはまったく無関係です。
もしボールペンが製品で、音楽作品が芸術であるなら。ボールペンからインクが出てこなければ、それを訴えても正当なクレームでしょうが、聴きに行った演奏会で「おい、ここのどこに美しさがあるのか!?」と言ってもそれのどこに正当性がありましょうか*1

ただし、「芸術作品」はやっかいです。観照の結果に解釈はあれど正解はない。”正しさ”はなく、ただ”過程を楽しむ”ことがあるのみなのだ。
そう、どこに存在しているかもわからない「美」を探す過程を楽しむ必要が出てくる。
しかも日常的に使用する言語というものは器楽作品には含まれていないから、なおさらたちが悪い。眼前に現れる無機質にも見えるそれに対してある程度こちらからもアプローチをかけることが必要で、このアプローチの仕方は誰も*2教えてはくれないのだ。

朗報なことに我々は決して丸腰ではない。我々には生き生きとした身体がある。音楽に合わせて好き勝手動かしてみよう。アラベスクのように流動的な美に対して留まっていても始まらない。
そして星の数ほど「作曲家」と「演奏家」がいることに気づくことができればさらに幸いだ。個人に対する偏見が外見を見たほんの数秒で作られるように、4楽章ある交響曲の1楽章、そのほんの冒頭10秒程度で良い。そこで自分に合わないのならそれ以上聴く必要はない。

世の中に出回る多くの解説と銘打つ”感想文”のように優れた語彙力を持ち合わせる必要はない。音楽に対して都合の良い存在であってはならない。聴者は常に自発的に音楽に関わり思考し、美を見つける。これは極めて内的な行為であるが、それとこれらのことを詩的に物語れるかはまったく関係のない話なのだ。

もし音楽を製品や商品だと思うのなら、その瞬間に人間のための正しさや対価が必要となり、それがおのずと感情美説に誘惑される環境を作り出し、上記のような極めて優れた感想文を作り出すと私は考えている。
本来は音楽と共同作業のもと美を探し出すという営みが人間中心になってしまうから、より日常的に使用している言語法則に則った美でしか語れなくなる。そもそもこの世界の美はすべて言葉に置き換えることができると誰が証明したのか。

十人十色という言葉があるように、一人として同じ人間はいない。だからCDレビューが感想文で満たされたとしても、それが誰のためになろうか。どうせ製品扱いするのならストレートな物言いで構わないのに。例えば「○○円払う価値はない演奏です。」とか。よっぽど客観的だろう。

ただ、確かに人間は他者と喜びを共有したい生き物かもしれない。
その手段として優れた感想文が量産されている可能性はあるだろう。
私が最も批判したいのは、音楽的な努力をしないで上記のような手段を何の疑いもなく取る環境を作り出した「音楽教育」、それのみである。少し考えれば感情美説の誤りは誰にでも思いつくはずなのに、比喩表現を最低限に抑える努力を怠るに至る理由はそれを知らないからだ。教育者がまともに教えないのだ。音楽の奏で方こそまじめに教育すれど、音楽自体についての教育をしないから、結局は本質を置き去りにして役に立たない議論に没頭する。

まれにクラシック音楽が敷居が高いと言われる。確かに教育が終わっているから、そう見えるかもしれない。しかし本当は音楽とはなにか考えている愛好家が少ないから、はたから見ると対象への焦点が合わないのではないか?
つまり、彼らが”どう楽しんでいるか?”を疑問に思う前に、彼らが”何を楽しんでいるか?”すら外野から見ればわからないという可能性だ。

すなわち、もっと形式的に、即物的に音楽は解説されるべきなのだ。他のジャンルはすでにそうなっているではないか。
例えば、映画。実写であろうとアニメであろうと、動画サイトに投稿されている批判動画の大半は感想とセットで俳優の演技がどうこうとか、衣装がどうのとか、作画がどうのとか、往々にして語られている。感想という極めてあいまいな語りも、誰しも触れたり考えたり容易にできる内容をセットで語ることで、そのジャンル自体への親しみやすさが生まれるのだ。そしてそれを見た視聴者は自分もそういう見方ができるのではないか?と考える。この積み重ねがそのジャンルを強くし、建設的な議論を生み、コンテンツとして時間とともに成長していける。

目に見えない感想ではなく、触れたり具体的に考えることができるものに基づいて考えることは間接的に人間への関心も生むだろう。
例えば、アニメの作画について語ることはアニメーターという職業の存在はもちろん、彼らがどのように絵を描いているのか、その技法の歴史的な変化なども当然絡んでくる。もしかしたら、自分も描いてみたいと思いその道を志す人も現れるかもしれない。

ここまで考えて”クラシック音楽”というジャンルがいかに後発のジャンルに対して遅れているかわかるだろう。
決して他のジャンルに追い抜かれたのではない。自ら歩むことを辞めて追い抜かれるべくして追い抜かれたのである。その過程は上記で語ったように”芸術”から”製品”への転換、”観照”から”享楽”への転換という二つの誤りが原因だ。

ここまでだらだらと書いてきて2600文字程度。もしここまで読んでくれたあなたが、クラシック音楽を本当に好きなら、クラシック音楽のために何ができるか一緒に考えませんか?

*1:もちろんアンサンブルが粗悪であったり、あきらかな防げるミスを連発する演奏には苦言を呈する権利があるとは思います。

*2:少なくとも日本の”音楽の教科書では”