音楽と形式と

音楽について好き勝手語ったり解説したり

【音楽美学】音楽は性質の束なのか?

みなさんはものの本質を考えたことがありますか?
そのもの自体の中で、どんな環境でも変わらずにその存在を確認できるものが”本質”であると私は考えています。
例えば、ハンバーガーの「味」というのがもし人によって異なるのなら、それは本質ではなく、ハンバーガーを構成する要素(例えば「ひき肉」とか)は誰にとっても同じものとして目の前に提示することができるため本質であると考えています。

これを音楽に置き換えてみます。
感想というのは主観です。
器楽や歌に限らず、それは聴く人を取り巻く環境や、人生経験などによって左右されます。朝目覚めの時に聴くシベリウスの『アンダンテ・フェスティーボ』と寝る前に聴く『アンダンテ・フェスティーボ』への感想が異なるのと同じです。
反対に形式というのは誰にでも見せることができます*1。ですからどのようなシチュエーションでも変わることなく、誰にでも再現して見せることができます。どのような環境でも『アンダンテ・フェスティーボ』はGの和音から始まるのです。

大方ここまでの私の主張は共感されずとも一定の理解を得ることができると思っているのですが、問題はむしろこの先にあるわけです。

『アンダンテ・フェスティーボ』はシベリウスの自作自演音源もありますが、もちろんその他の演奏者による録音もあるわけです。クラシック音楽というジャンルにおいてはこういったことは日常茶飯事でしょう。

もちろん99%の録音は同じくGの和音から始まるでしょうが、フレーズの処理やもっと言えば各パートの音量バランス、果ては演奏する人数など、細かい箇所は異なっているわけです。

端的に言えば、フルオケでベートーヴェンの5番をやろうが、室内楽ベートーヴェンの5番をやろうが、各パートが一人しかいない編成でベートーヴェンをやろうが*2、同じくベートーヴェンの5番であると誰もが認めるわけです。
だからベートーヴェンの5番の本質というのは、これらの演奏に共通する何かであると絞り込めます。

弦のアンサンブルの厚みが変わろうとも、時代によって使う弓の素材が変化しようとも、金管楽器ナチュラルであろうとバルブ付きであろうと、楽器の音色にどれだけ倍音が豊かに含まれようと、それらに共通する要素が本質のはずです。

じゃあその本質とは何なのでしょうか。どこにあるのでしょうか。
まさか私たちが生まれながらにしてベートーヴェンの5番を知っていて、音楽を聴くとはそれを思い出す行為にすぎないなんてことはないでしょう。

ではここでかのハンスリックの美学モデルに立ち帰りましょう。
すなわち、音楽とは旋律・和声・リズムという三要素が「音楽的イデー」というクッションに刺さってまとめられた美であると。
このモデルは一見すると「音楽的イデー」という形而上学*3的で意味不明な何かを前提としているので、「そんなの証明できっこないじゃん」という反対意見に晒されるという弱点があります。
じゃあさ、ここから「音楽的イデー」を消去してみようかとなりますよね。だって誰の目にも提示できないものが本質であるわけないのだから。

でもこれは残念ながら失敗に終わる可能性が高いのです。
なぜならば、先ほどの例でお察しのように、同じベートーヴェンの5番でも細かいフレージングやテンポが異なるからです。
音楽には適切な諸要素の連続性があって、それが本質かもしれませんが、連続性なんてものはホールの残響感によって容易に異なるものです。
さらに言えば、ここに同じ録音のCDが2枚あるとすると、当たり前ですがその内容はまったく同じでしょう。
本質の数は1つであると考えるのが自然でしょうが、もし性質の束説を採用した場合、CDが2枚あった場合に本質の取り扱いに困ります。
性質が同じなのに、ベートーヴェンの5番の本質はCDの数だけあるのでしょうか?それともベートーヴェンの5番の本質がCDの数だけ分割されているのでしょうか?

旋律・和声・リズムの三要素いずれかに多少なりとも欠損や変更がされようとも、「それである」ということが変わらないのなら、やっぱりそれって、この三要素の裏にこれらを束ねる音楽的イデー=”本質”なるものがあるおかげだよねって考えた方が、当たり前ですが変化に強いモデルになります。基体(substrata)説ですから当然です。
そして誠に恐れながら、このような変化こそがクラシック音楽の楽しさであって、ベートーヴェンの5番が長い歴史の中で何度も演奏会のプログラムとして使いまわされている理由に他ならないのですから。

ちょっと脱線するのですが、この考え方を歌に持ち込むと歌というのはテキストが本質である可能性が非常に高いと思えませんか?
だって、旋律・和声・リズムをそのまま据え置きにしても歌詞を少し変えるだけで、その歌とは言えなくなるでしょう?替え歌になるから。
もしそうなら、やはり器楽と歌は全く異なるものと峻別するべきですね。

もしかしたら、先ほど「旋律・和声・リズムの三要素いずれかに多少なりとも欠損や変更がされようとも、」と書きましたが、これには一定の限度があるかもしれません。
つまり、一定のレベルまではベートーヴェンの5番であると許容できるが、それ以上はベートーヴェンの5番ではなくなってしまうような、言わば閾値のようなものがあるのかもという考え方です。
これに関しては私も勉強不足ではありますが、もしかしたらメルスマンのような力学的エネルギーに基づく音楽美学が答えを出すのかもしれません。

いずれにしても、ことクラシック音楽においては「音楽は性質の束である」という考え方よりは音楽的イデー論を再構成して、足りない要素を補完する方がいいように思えます。
でもそれって、結局は音楽の本質に対する思考を放棄しているに等しいのかも……?

今日のところはこの辺で。

 

~ニールセンの交響曲第4番『不滅』を聴きながら~

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*1:ここで言う形式とはハンスリックの美学に基づき「旋律」、「和声」そして「リズム」であるとします。

*2:そう、ポケット・フィルの演奏のようにね。

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*3:私は「”人間が経験できないこと”について語る学問」として「形而上学」という言葉を使っています。