音楽と形式と

音楽について好き勝手語ったり解説したり

クラシック音楽が流行らない理由

クラシック音楽がなぜ流行らないのか、おそらく多くの考察がされていることは想像に難くない。
個人的には、クラシック音楽が「音楽のための音楽になってしまったから」という理由が多いように感じる。
つまり、聴く人のためではなく、音楽のための音楽であるか、プレイヤーのための音楽であるか、はたまた一定のレベル以上の経験や知識を持つ人向けのカテゴリーと化しているからであるということだ。
平たく言えば、難しくなりすぎたということ。

 

ある方に動画に使うBGMの作成を依頼した際に、クラシック音楽の印象を聴いたところ、「理解しなければいけない音楽」と返答をいただいた。
ああ、やっぱりなと思った。

私はずっとこの問題について考えている。が、毎回行きつく答えは大抵以下の二つだ。


①音楽教育のせい
②熱心なファンの自虐的なあきらめ

①に関しては語るまでもないと思うから*1、今回は②について述べていく。

 

まず、クラシック音楽が「音楽のための音楽になってしまったから*2」というのは、額面通りだ。なぜなら、ジャンルとしての歴史があまりにも長すぎるから。ベートーヴェン以後の作曲家は常にベートーヴェンを越えなければならないというプレッシャーと戦ってきた。勝つために相手を研究するのは当たり前で、ベートーヴェンについて調べれば調べるほど、とてつもない”やべーやつ”だとわかる。交響曲の雛形である「ソナタ形式」の枠組みで勝負しようとすると勝てないということがわかってしまうし、器楽の枠組みを超えてテキストを付与しようとすれば、「第九」という最終兵器まで持ち出される始末。だから相手の得意な領域で勝負するのは分が悪いので、本当にベートーヴェンがやらなかった土台で勝負するということになる。そうなるとオーケストラレーションの拡充や、他の芸術との融合、はては珍しい旋法の使用という話になってくる。
「作曲家」というのは無数にいるが、「著名な作曲家」というのは結局のところ、この”分が悪すぎる勝負”に勝つまではいかなくても、いい勝負をした人たちであると個人的には思っている*3

 

話を戻そう。クラシック音楽が好きな人はそんな歴史と曲をたくさん聴いて来ていると思う。そして好きになった曲の何がすごいのか、具体的に知ろうとするから楽譜を読んで音楽理論と照らし合わせるだろう。
これを繰り返すと一つの傲慢な仮説が浮き上がる。

「あれ?世の中の今「すごい」とされていることって、実はこんな昔にすでに試されてるじゃん。」
これは本当に「試されている」場合もあるし、未来の視点から見て「試されている」ように”見える”場合もある。

 

ただでさえ、自分の好きなものに対して教育やメディアがレッテルを貼る状況なのに、こんなことまで見えてしまうと、今流行しているものへだんだん反発心が湧いてくる。
ただ、この反発心を他人へ向けることはまともな人間なら少ないはずだ。じゃあどうなるか?
「もうわかってる人たちだけでわかればそれでいいよ」

音楽の内容を国の文化や、歴史、ひどい場合はどこかのきれいな景色とすり替えられても、「じゃあ何が正しいのか言ってみろ」と言われると、自分なりの解釈を説明するには色んなものが足りないので、あきらめてしまう*4

結果、他のジャンルに対して積極的に関わろうというエネルギーが生まれないので、アピールの場も求めなくなる。


加えて現代は「タイパ」主義の時代だ。クラシック音楽はタイパという面では最悪の趣味と言える。
かの岡田斗司夫さんの配信で、映画を倍速視聴する話を見たが、クラシック音楽はこうはいかないと思った。
私の大好きなシベリウスは幸いにもタイパは比較的悪くないのだが、もしブルックナーのファンだったら?ショスタコーヴィッチのファンだったら?と考えると目も当てられない。もしその作曲家の真髄が”交響曲”にあるとすると、それは大抵の場合3か4楽章形式であり、大抵の場合は30分程度は優に超える*5
それに根本的な問題として、テンポには絶対的な意味が付与されるのである。仮に楽譜指定のテンポが♩=120だったとして、それを♩=96で演奏している録音があったとする。これを1.5倍速の速度で聴いてもそれはその録音を聴いたことにならないだろう。多くの愛好家からすれば、テンポ96にはテンポ96固有の絶対的かつ指揮者が狙ったであろう美があると主張するのではないだろうか?
娯楽が多様化し、多忙を極める現代人にとっての30分というのは貴重なのだ。そんなことより、気になるアイドルVtuberの切り抜きを見るだろう。よくわかる話だ。
ましてや同じベートーヴェン交響曲でも死ぬほど録音があるので、どれから手を付けたらいいか初心者からしたらわからない。さしずめ、ワインに挑戦しようと酒屋に行っても結局よく飲む日本酒を買って帰る私のようだ。何をするにもお金と時間がかかるから失敗したくないのだ。

このようにクラシック音楽には逆風しか吹いていない昨今だが、もしかしたらこれは単に娯楽の多様化にすぎず、あるべき姿に戻りつつあるという見方もできるのかもしれない。要は、最初からクラシック音楽を嗜める層なんてこの数しかいなかったのだと。
本当にそうだろうか?

この考え方はポジティブに言えば「足るを知る」なのかもしれない。ただ、同時に「現状維持は停滞である」と言う人もいる。

私は知っている。一つの演奏会を開く大変さを。一つの録音を制作する労力を。一つの音楽的美を表現することの苦労を、その高邁な精神を*6

だから信じたい。音楽の自律的美*7の再認知が切り札であるということを。
私はどちらかと言うと「現状維持は停滞である」と思う。


~アイヴズの交響曲第2番を聴きながら~

 



 

【あとがき】
私の記事を毎回ご覧いただいている皆様。本当に感謝しかありません。できるなら皆さんを食事へでも誘って私がいかに勇気づけられたか語りたいほどです。それができないことを「忙しさ」で言い訳することをお許しください。

*1:『クラシック音楽をオワコンさせるものhttps://midorikawa-yu.hatenablog.com/entry/2023/08/22/210942)』をご覧いただけますと幸いです。

*2:絶対音楽標題音楽の対立について述べているわけではありません。

*3:そういった意味でもっとも善戦したのはワーグナーブラームスなのだろう。

*4:いわゆるリテラシー不足なのだ。これに関しては誰も悪くない。

*5:例えば1楽章だけ聴いてその交響曲について知っていると言ったら、それは嘘になるしね。

*6:もしかすると「精神的内包(Gehalt)」と言われたものを。

*7:それは旋律、リズムそして和声から構成される。