『展覧会の絵』と言えば何を思い浮かべるだろうか。
多くの人にとってはきっとトランペットのソロで始まるラベル版だろう。
おそらく最もすぐれた編曲はラベル版であるということは言うまでも無いとして、でもそれだけじゃないよねと通な方々は思いますよね?
はい、私もそう思います。
ロシア音楽にはまったく詳しくないので、民族感とかは語ることができないのですが、正直ストコフスキー版って結構いいなと思ってました*1。
そう、これに出会うまでは。
きっとムソルグスキーはこんな音で自分の書いた音符が鳴らされるなんて想像してなかっただろう。
だから「クラシック音楽」=「自作自演音源を忠実に再現することを目的する音楽」と考える層には絶対うけない録音。
でも、クラシック音楽を一つのエンタメと考えるとどうだろう。冒頭からプロムナードはそこら辺の有名オケの音源よりよっぽど惹き込まれるし、ブイドロ*2なんてとても良いと思った。
むしろ西洋チックな音色で無い分、潜入感を破棄して音楽そのものに没頭できる気すらする*3。
そうなると、原曲、ラベル版をはじめとする様々なアレンジ版、これらに共通する要素(=美)が音楽の本質なのだろうか。
いや違う。私はこの誇り高いアレンジを聴いて確信する。かの美学者は音楽の本質は旋律・和声・リズムの三要素であるとしたが、これにはひとつ欠けているものがある。
そう、それは楽器の音色という形式だ。
原曲のピアノ版、ラベルやストコフスキーなどのオケ版、そしてこういったある種のゲテモノ。それぞれに異なる音楽的イデーを持つのだ。だからそれぞれはそれぞれに良さがあって、一方は一方の上位互換とか下位互換であるとか、そういう言い争いは意味がないのである*4。
(さて、文才のない私は本質が日常への不満に覆い隠される前に論を切り上げる必要がある。)
こういった、まだ世の中に無いような美を既存の作品をもとに表へ出すという行為。これを応援する姿勢というのが、娯楽が多様化した現代に置いて”クラシック音楽”が生き残るために必要なことではないだろうか。
じゃあ何が必要?なんだろうね、難しいね。
少なくとも「わかる人だけわかればいい」ではない、開かれた娯楽へ
でも芸術であることをキープして。
*1:セレブリエール@ボーンマスso.なんて結構いい線言ってたと思うし、山下和仁氏のナイロンギター版(https://youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_m3EahhxzEr3biUUjIo1JBkFnfyvZ8EDUo)もすごくいいよね。
*2:テューバソロがユーフォニアムで演奏されるのをよく見るけど、別にB管のテューバでも全然吹ける音域ですよね。
*3:クラシック音楽はエンタメではなく、芸術であると思う。というのが私のスタンスだ。
だから断じてお金を払って得る快楽のために鳴らされるものではないし、そういう意味では彼が言うところの純粋観照に基づく理解が必要なジャンルだと思う。
*4:もちろん、かの美学者の言うように、この音楽を作り出したムソルグスキーという原作者には、彼特有の想像による美を認めることはできるが、彼だって音楽として表出した現象としての流動する形式側をより重要視していたはずだ。