音楽と形式と

音楽について好き勝手語ったり解説したり

わたしがブログを書く理由

特別お題「わたしがブログを書く理由

私のブログを読んでいただく方はもうお察しかと思うのですが、私の音楽観にはとある美学者が強く関係しています。彼の著書『Vom Musikalisch-Schönen』を読むまで、私は自分のような考え方を持つ人間は極めて少数派だと考えていて、口に出しても馬鹿にされるか、理解されないの二択だと思ってさえいました。

例えばベートーヴェン交響曲について気になったとします。
それを早速ネットで検索してみます。
そうすると、交響曲について語っていると自称しながらも結局はそれ以外の歴史であったり、文化であったり、とにかく音楽とは本当に意味連関を持つと言っていいのかわからない記事がたくさん出てきます。

私はこういうものに本当に辟易していました。
だから私の好きな作曲家や曲について、世間一般が無関心であることが何よりの救いでした*1

ただ、そういったものが一定の評価を浴びているという現実を見ると、やっぱりクラシック音楽というのは明確に「何かを意味している」と思われているのだなと。
つまるところ、「特定の何かを具体的に表現できる」と一般には捉えられているのかなと。
私にとって音楽はそういうものではなかったのです。

また、日本には吹奏楽コンクールなるものがありますが、私も例に漏れずそれに参加する学生時代がありました。
ただ、正直それに情熱をかける意味が分からなかった。あんなに金賞を目指すと息巻いてアンサンブルを向上しようとした同級生は進学するとぱたっと音楽を辞めてしまっている人がほとんどだったからだ。せっかくいい楽器買ってもらったんでしょ?と。

両者は別物に見えても、音楽を手段として扱うという点では共通しているように見えるし、それが音楽に対して誤った偏見を植え付け、自らオワコンへと導いているようにしか残念ながら見えない。

確かに、音楽の内容を他律的な美と決定すれば、それは楽チンなのかもしれない。
つまり、自分でスコアに向かって考えなくても済むし、音楽のリテラシーがない他者へも簡単に伝聞できるし、なにより注目されるのだろう。

でもさ、それを受け取った側が本当にクラシック音楽を愛してくれるのか?
私は断言できる。そういう誘いを受けてクラシック音楽を好きなっても、多くの人はすぐ他のコンテンツに流れるだろうと。
だって、流行りの”タイパ”は最悪だし、”絵”とか”言葉”の方が圧倒的にわかりやすいし伝聞しやすいから。

私にとって音楽は音楽だ。それ自体が目的だ。なんとなく綺麗だな、居心地がいいな、そんな風に思ったところからスタートし、次に音楽がどのように変化するのか、毎回その迷路を楽しむ。その程度でよくないか?
和声が緊張と安定を繰り返す。そもそもまずそれだけで楽しいじゃんか。
表拍に見えるリズムが実はシンコペーションで、それがある瞬間に表拍になって解決する。それだけで楽しいじゃんか。

人間には寿命がある。だからきっと死ぬまでにすべての音楽を聴くことは不可能だ。
ただ、少しでもそれを充実したものにするために私はこのブログをはじめました。
最初は壁打ちになるだろうと思っていたのに、多くの方々に★をつけていただき一人の人間として本当にうれしい限りです。
私の考え方に共感していただけなくても、クラシック音楽に対して何かしらの興味関心を自発的に持たれている方々が世の中にはいるのだと。それを知れるだけで本当に嬉しいです。

 

あれ?前に書いた記事と同じことを言っているような・・・
いや、私のブログもまだまだ”提示部”ですから、繰り返しでも許してください。

 

~トゥイレの『ピアノ五重奏曲 変ホ長調』を聴きながら~

youtu.be

 


*1:好きなアニメや漫画が実写化してほしくない、あの感じに似ているかもしれません。