音楽と形式と

音楽について好き勝手語ったり解説したり

シベリウスがくれたもの

本日はシベリウスの生誕日です。
彼の音楽との出会いは高校生の頃。当時所属していたオケでシベ2をやることに。そこから気づけばアマゾンで片っ端から全集を買いあさる日々。
音楽を聴くこととは、この次に音がどっちに行くのか予想して、まるで連続するクイズを楽しむようなものだと思っていました。ただ、すべてのクイズが納得するような正解を持ち合わせているわけではなく、中には悪問と見えるようなものもありました。
シベリウスはそんな私に常に完璧な答えを出して来ました。
洞窟を進むと右と左に分かれ道、どちらに行こうか彼と対話をすると必ず自分と同じ方を指さすのですが、その理由があまりにも美しい論理で組み立てられていて、無駄がなく完璧であり、このような対話の自体がとても充実した時間に思えたのです*1

そして彼があまりにも完璧で前期から後期にかけて、交響曲においては1~7番まで全く異なる表層をしているにも関わらず(それぞれの異なる世界観の中で)、美しい論理と答えを持ち合わせていたがために私は苦手だったピアノを克服してまで音大に行こうという気概が無くなってしまいました。
どんなに頑張っても、何をどうやっても彼の猿真似にしかならないだろうと10個目の全集を買ったあたりで気づいたからです。

彼の完璧な論理は私に別の価値観ももたらしました。
それは紛れもなく自律的な音楽美の価値観でした。
音大への進学というある種の夢をぶち壊されたと同時に、一生かけて付き合うことになるこの美学の概念を7つの交響曲は与えてくれました。

それまでのプレイヤーという視点ではなく、一歩引いた半分哲学的な視点から音楽とは何なのか考える、この視点がなければ一生譜面の音をどう表現するかということだけに時間を使っていたことでしょう。

もしタイムマシンが発明されたなら、迷わず晩年の彼に会いに行くでしょう。
「音楽とはなんですか?」
きっと有意義な時間になることでしょう。

 



*1:今思えば、これはシベリウスがすごいとかではなくて、私にとってはこのように見えていたということであって、一般的に”自分に合う作曲家”とはこのようなものなのかもしません。