音楽と形式と

音楽について好き勝手語ったり解説したり

何を継承していくべきか~技術、哲学、知恵

コンテンツの生き死がより高速化する現代において、クラシック音楽というジャンルが生き残るために何が必要なのだろうか。

楽器を弾くことのできる技術だろうか。たしかにそれは重要だ。
結局原初的な音楽の美しさというのはある程度そこに根差しているから。

音楽に関する知識だろうか。
確かにそれがなければ楽譜を読むこともできないし、音楽的な言説をすることもできない。

哲学だろうか。
最終的に自分の意見の方向を決定付けるのは哲学だ。

どれもバランスよく必要なのだ。
核爆弾を作る技術を勉強することが核爆弾を使用してよいのかという問いに答えられないように、しかし核爆弾についての知識が時にその問に対する明らかな誤謬を論破できるように。

クラシック音楽は他のジャンルより厳しい立場にある。
なぜなら音楽の授業で「触れたことにさせられる」からだ。そしてたいていの場合その結果は芳しくない。多くの場合、音楽の授業というのは退屈で、得るものがなくて、人によっては屈辱的な思い出なのだ。
音楽の授業というのはクラシックそれ自体についての授業ではなくて、あくまでもそれを通じて教養を学ばせるための主題にすぎないから、クラシック音楽がどうなろうと知ったことではないのだ。
このような構図がクラシック音楽というジャンルの入門のスタート地点を0以下に貶める。「クラシック音楽はよくわからないけど難しそう」という、常にマイナスからのスタートなのだ。

もういっそ音楽の授業からクラシック音楽というものを削除してほしい気すらしている。何もクラシック音楽以外にも音楽のジャンルはあるのだから、こんな古臭いものばかり選定せず、あたらしいものを取り入れて専門性を薄めたほうがよいような気がする。

話を戻すと、技術、哲学、知恵の三つをバランスよく後世に継承していく必要があると思う。技術と知識は密接に関係があり、片方を極める過程で間接的にもう片方も履修していく必要がある。
しかし哲学だけは別で、現代人において最も不足している要素だと思う。
YouTube上には様々なクラシック音楽に関する動画があるが、そのほとんどが自らの哲学(美学)上の立場を明らかにしないで物事を語りたがる。恐ろしいのは前提がばらばらだからその内容が正しいのか素人にはおそらくわからないのだが、その語り手は専門的な肩書を持っているのでなんだか正しいように思えることだ。

逆に言えば、このような肩書ありきでしか主張の正当性を担保できない、令和とは思えない旧体制的な界隈なのである。
だから初心者は自ら考えることをやめて、誰かの言葉を借りることでしか音楽を語れなくなる。当たり前だが世の中の全員がそのような専門的な学校を出たり職業についているわけではないからだ。

私にはIT関係の仕事を長年やっている友人がいるのだが、彼にこのような話をすると「いや、意外と専門的な学校を出た人ってピンきりで、『こんなことも知らないの!?』って人もたくさんいる。自分はプログラミングを学校で学んできて周りの人も同じだと思ったら似たような学部から来た人でまったく書けない人もいた。でも結局その人も僕も同じく『ちゃんとした大学を出た人』として扱われる」とのこと。
別に僕のVtuberとしての活動を正当化するわけじゃないけど、クラシック音楽は結局このレベルの界隈だと思うのだ。

僕は専門的な教育は受けてない「やぶ医者」だし、投稿している動画の内容も正直「民間療法」的だ。でも一つ自分の中での音楽的な美学や立ち位置だけははっきりさせている。
これは上述した哲学の部分について学ぶことができたからに他ならない。
しかしそれは大学という言ってみれば任意で参加するような環境に行って、そして根気よく自分の意見を聞いてくれる教授のもとで学ぶことで、ようやくそのチャンスを得られる。
多くの人は技術と知識だけ身に着けてそれで終わってしまうから、もっとも肝心な核となる部分を形成できないまま、よくわからない専門家によるそれっぽい動画を見て染まってしまう。
興味があれば技術と知識は高校卒業時点でそれなりに習得しているしているので、そういった専門家の話を理解することはできる。ただしそれが自分にとってどういったものなのかアウトプットできない。でも相手は一見すると賢そうな専門家なのだ。自分よりなんとなく格上の相手が雄弁に語る姿に気づけば感情移入してしまう。

このような状況で人は何を後世に残せるだろうか。他人から借りた言葉で、そこには何の哲学も、思想も、こだわりも、毒もない。そんな薄っぺらい何かの継承を今後も続けることがクラシック音楽というマイナススタートの芸術カテゴリを生き残らせるために有効なことだろうか。

これはゼーデルマイヤーの4つの分類をアレンジしたマトリックスだ。

私にとってクラシック音楽とは「無対象有意味芸術」に他ならない。
これが僕の美学上の立ち位置だ。