調性音楽という前提では究極までデフォルメするとトニカ・サブドミナント・ドミナントの三つだけで音楽が説明できるということになります。
C-durの曲であれば、突き詰めるとC・F・Gだけで本来は作れるところを、それぞれを代理可能な和声の組み合わせによって個性というのが生まれているのです。
音楽の自律性を保ったままの言い方で別の表現をするなら、調性音楽においては安定・対立・緊張の三つしかないのです。
そして大まかにではありますが、主要三和音とダイアトニックコードは以下のようにカテゴリーできます。
※()内はC majorの場合の該当和声
【安定】
プライマリー=I(C)
代理=VI(Am)・III(Em)
【対立】
プライマリー=IV(F)
代理=II(Dm)
【緊張】
プライマリー=V(G)
代理=VII(Bdim)・III(Em)
ただ、困ったことに上記のプライマリーと記した和声よりも代理和声の方がしっくりくることもあります。
とくにIIはその最たるもので、ポップスでもおなじみのツーファイブはF→G→CよりもDm→G→Cの方が納得感のある終止の代表的な例です。
これは直前の和声に対する対立よりも、直後に対するドミナントモーションの方が求められる役割比率が大きくなるためであると考えられます。
ツーファイブは直前がトニカ系だった場合にそれに対する対立と同時に後継のVを導く強進行を作れるという点で優秀なのです。
しかし、このように考えると一つの疑問が生まれます。
もしFで本来構想していたところがDmの方が適していると考えられた場合、その小節の役割は本当に対立なのでしょうか?
もしかしたら二元論的に調性音楽においては【安定】と【緊張】しかなく、場合によっては【緊張】は【対立】で代理できるという、ただそれだけなのではないでしょうか。
大げさに言えば、すべてのサブドミナントはドミナントの代理であるか、経過であるかということです。
ただキリスト教の三位一体説やカメラの三脚、果てはじゃんけんのように、何かと”3つである”ことはそれだけで優れているような印象を受けます。
結局のところ、サブドミナントって「その他」って扱いをしがちな今日この頃。
~ルロイ・アンダーソン『China Doll』を聴きながら~