音楽と形式と

音楽について好き勝手語ったり解説したり

音楽は何も表現しない

音楽は内容を持つのか。音楽は何かを表現できるのか。ずっと私は考えている。
クラシック音楽が流れるテレビ番組がその構造について述べることなく、その作曲者の生きた時代の解説や、生まれた場所の風景を映していることに、疑問を持つことは日常茶飯事だった。
だって音楽は何も表現しないじゃないか。音楽は鳴り響く放たれた音の集合体であって、それ以上でもそれ以下でもないのだから。


歴史を正確に伝えたいのなら、言葉や映像が適している。ショスタコーヴィッチの交響曲第11番には確かに背筋が凍る経験をしたけど、本当にそれが音楽の特殊本姓だろうか。
極端に言うなら、音楽は言葉に置き換わってコミュニケーションの道具になることが可能なのだろうか。
きっとそれはできない。できないから歌というジャンルがあって、テキストが音楽を使役するということがポジティブな意味を持つに至っているのではないか。

つまるところ、音楽が何か意味を持つと考える限り、「それって言葉(もしくは絵)で言えばいいよね」という反論から逃れられない。

 

違う、違うよ。音楽は言葉や絵と対等か、もしくはそれ以上であってほしいんだ。
自分の好きな作曲家が、文章や絵の才能がなかったから仕方がなく音楽というジャンルで妥協したのか?そんなわけないじゃないか。

 

音楽はこの世で唯一、音楽でしか表現できないものを表現している存在のはずで。
そしてそれは、音楽自身であるはずだ。

 

だから僕は信じる。
音楽の内容は響きつつ動く形式である、と。


明日にはつまらない感想文を書いてしまうかもしれないけど、音素材が主語となる文章を心がければちょっとはパトローディッシュな見方から遠ざかれる。